フラが禁じられた時代に何が起きた?|メリーモナーク誕生につながる復元の歴史
なぜフラは禁じられたのか──ハワイ文化の危機
今でこそ世界中で愛されるフラ。しかしその歴史には一度、文化が消えかけた“暗い時代”がありました。
19世紀、ハワイにキリスト教宣教師が到来すると、フラは「不道徳」「異教的」とされ、公共の場での踊りが禁止されました。
フラは神々への祈りや歴史を語る大切な文化であったにもかかわらず、その多くが隠され、伝承が途切れそうになったのです。
宣教師時代に起きたこと──フラは影に追いやられた
宣教師たちは、ハワイの人々が行っていた儀式・歌・舞踊を“改めるべきもの”と考えました。
その結果、
- 公共のフラは事実上の禁止
- フラを教える場が消え、ハラウが閉じられる
- 一部の儀式は“罪”とされ、密かに踊られるようになる
フラは単なる踊りではなく“歴史の記録”そのものでした。
フラが消えることは、ハワイの言葉・神話・系譜が失われることでもありました。
しかし…家庭の中では文化が守られ続けた
禁止の中でも、フラは完全には途絶えませんでした。
クムフラ(師)がごく少人数の弟子に密かに教え、家族の中で歌や祈りがささやかに守られていたのです。
この“火を絶やさない力”こそ、後にフラ復活を支える大きな原動力となりました。
流れが変わる──カラーカウア王の登場
1874年、ハワイの王となったカラーカウア。
後に「メリーモナーク(Merrie Monarch=陽気な王)」と呼ばれる彼は、ハワイ文化を愛し、
失われかけていた伝統を“公に復活させた”人物として知られています。
彼の最も象徴的な行動は、王の戴冠式で堂々とフラを披露させたこと。
これにより、フラは表舞台に再び姿を現し、ハワイ文化の誇りが蘇っていきました。
メリーモナークが守ったもの──フラとハワイ語の復権
カラーカウア王が行った文化復興の代表例は以下のとおりです。
- フラの復活と王室行事での正式採用
- ハワイ語の歌や詩を集め、記録として残した
- 古い神話・系譜・儀式の復元を支援
- ミュージシャンや詩人を保護し文化を育てた
王の尽力がなければ、今日のフラの発展はなかったと言われています。
現代につながる“メリーモナーク・フェスティバル”誕生
1964年、ヒロの町で「メリーモナーク・フェスティバル」が始まりました。
これはカラーカウア王の文化復興の精神を引き継ぐもので、
今では世界最高峰のフラ競技会として知られています。
このフェスティバルは、
- ハワイの歴史と文化を次世代へつなぐ役割
- クムフラの教えと伝統を守る場
- 世界へ“本物のフラ”を発信する中心地
として、毎年大きな注目を集めています。
フラが復活したことの意味──“文化は消えない”という証
フラ禁止の時代は、ハワイにとって苦しい歴史でした。
しかし、家族と師弟のつながりによって文化は守られ、
一人の王の情熱から再び息を吹き返し、今に続いています。
これは、どれほど抑圧があっても文化が完全に消えることはない──
そんな力強いメッセージでもあります。
まとめ|フラは“ハワイの心そのもの”だった
フラ禁止の時代から復活までの歴史は、
ハワイの人々が文化をどれほど大切にしてきたかを教えてくれます。
そしてメリーモナークへ続く復興の物語は、
フラが単なる踊りではなく“祈り・記録・誇り”であることを示しています。
今、私たちが目にするフラは──
多くの人々が守り抜いた“ハワイの魂”そのものなのです。