ハワイ語禁止の時代|言葉が奪われた世代と復活への歩み
はじめに|なぜハワイ語は一時「禁止」されたのか?
今日、ハワイの文化といえば、美しい自然やフラ、ウクレレ、そしてハワイ語を思い浮かべる方も多いはずです。しかし、そんなハワイ語が一時「禁止されていた」という事実をご存じでしょうか?
ハワイ語は、ハワイの先住民たちの言語であり、文化の根幹をなすものでした。しかし19世紀末から20世紀にかけて、政治的・教育的な圧力の中で排除されていきます。この時代、ハワイ語を母語とする多くの人々が「自分の言葉を話せない」苦しみを味わいました。
この記事では、ハワイ語が禁止された時代背景と、そこからどのように復活の道をたどってきたのかを見ていきます。
ハワイ語禁止の背景|1896年、ある一つの法律から
ハワイ語排除の大きな転機となったのは、1896年に制定された「公教育でのハワイ語使用禁止」の法律です。
▷ その背景にあったもの
・1893年、アメリカ人商人たちによるクーデターでハワイ王国が崩壊
・1898年、ハワイがアメリカに併合され、正式にアメリカ準州となる
・アメリカの文化・言語への「同化政策」が進められる
この流れの中で、英語が教育や行政の「唯一の正しい言語」とされ、ハワイ語は排除されていったのです。
言葉を失った世代|フラも、祈りも、家庭の会話も変わった
ハワイ語が禁止されたことの影響は計り知れません。
▼ 教室では英語のみ
子どもたちは学校でハワイ語を話すことを禁止され、話すと「罰を受ける」こともありました。そのため、ハワイ語を話すことに恥ずかしさや恐れを感じるようになっていったのです。
▼ 家庭でも英語が優先に
多くの親たちは「子どもが成功するためには英語が必要」と考え、家庭内でもハワイ語を使わなくなりました。これは、言葉だけでなく、文化・信仰・世界観までもが薄れていくことを意味していました。
▼ フラやチャンティング(祈り)にも影響
フラで使われる歌詞や祈りの言葉にはハワイ語が不可欠。しかし意味がわからなくなることで、本来の精神性やメッセージが薄れていったのです。
眠っていたハワイ語の復活|1970年代からの動き
希望の光が差し込んだのは1970年代。世界的な文化回帰の波の中で、ハワイでも「自分たちの言語と文化を取り戻そう」という運動が起こります。
ハワイ語復興運動のはじまり
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1978年:ハワイ州憲法改正
→ ハワイ語が英語とともに公用語として認定される -
1980年代:ハワイ語イマージョン校(Punana Leo)創設
→ ハワイ語だけで保育・教育を行う学校の誕生 -
ラジオ・テレビ・出版の普及
→ ハワイ語メディアが登場し、若者や大人たちにも再び広がり始める
生きた言葉としてのハワイ語へ
今では、子どもたちがハワイ語を学び、フラやチャンティングの意味を理解して踊ることが当たり前の時代になりつつあります。
現在も続く課題と希望
とはいえ、ハワイ語を母語とする人の数はまだ少なく、「日常会話として使う言語」としてはまだ道半ばです。
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日常的な使用者は1万人未満とも言われている
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英語社会の中で「実用」と「文化」との間に葛藤がある
しかし、それでもハワイ語は確かに戻ってきています。学校や大学で学ぶ人が増え、SNSやYouTubeでもハワイ語のコンテンツが増加。新しい命が吹き込まれています。
まとめ|言葉は文化の魂。守り、つないでいくために
ハワイ語の禁止は、単なる言葉の問題ではなく、文化や誇りを奪う痛みの歴史でした。
その言葉が今、再び多くの人の口から語られ、歌われ、踊られ、祈られています。私たちがフラを踊るとき、アロハを感じるとき、その背景にはこうした「取り戻された言葉」の力があることを、忘れてはならないと思います。