Naomi Artistic History
寺田名保美芸歴
主宰 寺田名保美
寺田名保美は、1992年に日本で初めてクムフラ(フラの師匠)レフアナニ佐竹から卒業儀式を経て、プロフェッショナルなフラの指導者としての資格を取得しました。その節目を迎え、彼女は「ハラウ オ ラ・フラ ナオミ」を設立し、フラの伝統を次世代に伝えるための活動を開始しました。
「ハラウ オ ラ・フラ ナオミ」は、フラの伝統を大切にし、その美しい芸術を広めることを目的としています。初心者の方々にも丁寧な指導を行い、フラの基礎から学べる環境を提供しています。ここでは、フラを通じて楽しく学びながら、文化の深い理解と愛を育むことを目指しています。
皆さまへ
フラに興味がある方は、ぜひ「ハラウ オ ラ・フラ ナオミ」にお問い合わせください。私たちは、伝統を尊重しつつ、一人ひとりの生徒と共に成長し、フラの魅力を共有する温かなコミュニティを築いています。
芸歴 1969年
寺田名保美の歩み
寺田名保美は、ハワイアンバンド「パームセレナーダス」の創設者である大塚竜男先生に見出されました。この出会いにより、彼女はポリネシアン民族舞踊の世界に足を踏み入れることになりました。大塚先生のスカウトをきっかけに、彼女は「レフアナニスクール」(当時の名称)で、主宰者レフアナニ佐竹(Lehuanani Satake)から厳かな指導を受け始めました。
この経験は、寺田名保美にとって新たな舞踊の旅の始まりとなりました。レフアナニ佐竹から受けたフラとポリネシアン舞踊の教えは、彼女が「ハラウ オ ラ・フラ ナオミ」を設立する際の強固な基盤となりました。これにより、彼女はフラの魅力とその深い文化的意義を広く伝えることに力を注ぐようになりました。
大塚竜男先生との出会いとレフアナニ佐竹からの指導は、寺田名保美のフラへの情熱と献身を深め、彼女のキャリアの重要な転機となりました。
1971年
幼い頃の寺田名保美の「ちびっこフラダンサー」としての輝き
寺田名保美がまだ幼い頃、彼女は「ちびっこフラダンサー」としての才能を発揮し、その輝く瞬間がありました。この時、彼女はテレビ朝日の番組「アフタヌーンショー」に出演し、名前が「寺田順子」として表記されていました。その微笑ましいパフォーマンスは、彼女が幼少期からフラダンスに対して情熱と才能を持っていたことを示しています。
このエピソードは、寺田名保美がフラダンスへの深い愛情と献身を育むきっかけとなり、その後のキャリアに大きな影響を与えました。彼女の幼い頃からのフラダンスへの情熱は、今や彼女の人生の中心的な役割を果たしています。
寺田名保美のハワイアン音楽への影響
寺田名保美は、ハワイアン音楽のギターを灰田有紀彦(春彦)先生に師事しました。灰田有紀彦先生は、著名な歌手灰田勝彦の兄であり、ハワイアン音楽の分野で高い評価を受ける音楽家です。
貴重な写真について
この貴重な写真には、3人の偉大な音楽家が並んで写っています。左から、初代ウクレレ協会会長の渡辺敏治先生、ハワイアンバンド「パームセレナーダス」の創設者である大塚竜男先生、そして灰田有紀彦先生が並んでいます。この写真は、寺田名保美がハワイアン音楽において受けた影響と指導の深さを物語っています。
このような経験を通じて、寺田名保美はハワイアン音楽とフラダンスの両方に深い知識と技術を身につけ、フラと音楽の文化的な豊かさを次世代に伝える役割を果たしています。
1972年
寺田名保美の初期キャリア
1972年から1974年にかけて、寺田名保美は銀座のタクトでプロのフラダンサーとして舞台に立ちました。この期間にわずか10歳で出演し、当時の最年少舞台出演者として注目されました。彼女の名前はその際「寺田純子」として紹介されており、これが寺田名保美本人を指しています。
この貴重な経験は、彼女のダンスキャリアにおける重要なステップとなりました。若くしてプロの舞台に立つことで、彼女の才能と情熱が早くから認められたことを示しています。この経験は、後にフラダンスの伝統を広める指導者としての道を切り拓く基盤となりました。
このような若くしての舞台経験は、彼女のフラダンスに対する深い愛情と献身をさらに深め、フラダンスの文化を次世代に伝えるための指導者としての役割を強固にしました。
1988年
寺田名保美とUNIKIの授与
寺田名保美は、フラダンス教室「レフアナニスクール」の主宰者であるレフアナニ佐竹から、**UNIKI(ウニキ)**と呼ばれる特別な認定を授与されました。この重要な認定は、フラダンスにおける彼女の技術、理解、そして献身が認められた証です。
UNIKIの意義
UNIKIは、フラの世界で高度な技術と深い文化的理解を示すものであり、これを受けることで、寺田名保美はフラの指導者としての地位を正式に認められました。この授与は、彼女のフラダンスの旅における新たな章を象徴し、彼女がフラダンスの深い伝統と文化を次世代に伝える資格を持つことを示しています。
レフアナニ佐竹からのこの栄誉ある授与は、寺田名保美のキャリアにおける顕著な成果の一つであり、彼女のフラに対する深い献身と、指導者としての能力を示すものです。この認定は、彼女がフラダンスの真髄を理解し、伝えることができる信頼できる指導者であることを証明しています。
1992年
プロフェッショナルデプロマと「ハラウ オ ラ・フラ ナオミ」の設立
1992年、寺田名保美はフラダンスのプロフェッショナルデプロマを取得し、プロフェッショナルなフラダンサーとしての資格を正式に得ました。この重要な資格の取得により、彼女は自身のフラダンス教室「ハラウ オ ラ・フラ ナオミ」を設立し、本格的なフラダンスの指導を開始しました。
教室の目的と精神
「ハラウ オ ラ・フラ ナオミ」では、フラの伝統を大切にしながら、世代を超えてその美しい文化を伝えることを目的としています。寺田名保美の深い知識と情熱は、生徒たちにフラダンスの魅力と精神を伝え、多くの人々がこの芸術形式を愛するように導いています。
この教室は、フラダンスの基礎から高度な技術までを学べる場所として、多くの生徒に支持されています。寺田名保美の指導のもとで、フラダンスを通じてハワイの文化や精神を深く理解し、楽しむことができる環境を提供しています。
2003年
「ハラウ オ ラ・フラ ナオミ」の由来と意味
寺田名保美が主宰する「ハラウ オ ラ・フラ ナオミ」は、「太陽のように輝くフラ教室」という美しい意味を持っています。この名前は、彼女が師事した故レフアナニ佐竹によって命名されました。この名前には、フラの伝統とその明るさ、喜びを象徴する意味が込められています。
また、寺田名保美のハワイアンネーム「Lehua Leimakamae Naomi」もレフアナニ佐竹によって授けられました。この名前は、彼女のフラダンスに対する深い愛情と献身を反映しており、教室のビジョンを象徴しています。特に「Lehua」はハワイの象徴的な花であり、「Leimakamae」は「貴重なレイ」という意味を持ちます。これらの名前は、フラダンスとハワイ文化への深い敬意を表しており、教室が提供する教育と伝統の価値を高めるものとなっています。
これらの名前は、寺田名保美と彼女の教室が持つ理念とフラダンスへの情熱を伝える重要な要素であり、フラの教えを次世代に伝えるための重要な役割を果たしています。
2023年
寺田名保美のフラダンス人生54周年
2023年、寺田名保美はフラダンスのキャリア54周年を迎え、その輝かしい道のりを祝いました。彼女は長年にわたり、フラダンスの世界で重要な役割を果たし、多くの著名なハワイのアーティストたちと共演してきました。
共演アーティストと活動のハイライト
- ハワイコールズ: 寺田名保美はこの伝説的な番組でパフォーマンスを行い、フラダンスの伝統を広く紹介しました。
- ナーパラパライ: 彼女はこの人気グループと共演し、ハワイアン音楽とフラダンスの融合を披露しました。
- ジェノアケアヴェ: ハワイアン音楽界の大御所であるジェノアケアヴェと共演し、フラの美しさを表現しました。
- カジメロブラザース: カジメロ兄弟との共演も彼女のキャリアのハイライトの一つであり、音楽とダンスの完璧な調和を見せました。
- アーロンサラ: フラダンスと現代ハワイアン音楽の融合を通じて、彼女は新しい表現の可能性を探求しました。
これらのアーティストたちとの共演は、寺田名保美のプロフェッショナルとしての多様な経験を示しており、フラダンスの伝統と文化を世界中に広めるための彼女の献身を物語っています。彼女の活動は、フラダンスの魅力を広く伝えるとともに、次世代のダンサーたちにとって大きなインスピレーションとなっています。
この54年間の功績は、寺田名保美がフラダンスの世界で築いてきた顕著な足跡を示し、彼女の貢献がいかに深いものであったかを物語っています。
日本人初のクムフラ レフアナニ佐竹
レフアナニ佐竹芸歴
レフアナニ佐竹の芸歴と貢献
レフアナニ佐竹は、フラダンスとポリネシア文化への深い献身により、その芸歴が定義されています。彼女の舞踊人生は1956年のハワイへの初渡航から始まり、ハワイアン・タヒチアン・フラの本格的なレッスンを受けました。この経験は彼女のフラに対する情熱を掻き立て、その後のキャリアに大きな影響を与えました。
1961年、再びハワイに渡り、Ilima Hula StudioでクムフラのLouise Kahilioʻkalani KaleikiやAunty Lukaの指導を受けました。この時期に、彼女のフラダンスに関する知識と技術がさらに磨かれました。1962年8月3日には、日本人として初めて、ハワイでフラを教えることができるプロフェッショナルディプロマを取得するという偉業を達成しました。
その後、彼女はテレビやステージでの出演を通じてフラダンスを日本に広め、日本フラ界の第一人者として認知されるようになりました。特に1965年には、常磐ハワイアンセンターで初代講師を務め、日本におけるフラの普及に重要な役割を果たしました。
1975年以降は、台湾、フィリピン、中南米の米軍基地など、海外でのパフォーマンス活動も行いました。1977年には結婚し、ハワイに移住して13年間の生活を送りました。その後、1990年に日本へ帰国し、自身のフラ教室を設立して後進の育成に力を注ぎました。この教室は「ポリネシアン民族舞踊レフアナニスクールアカデミー」として知られるようになり、多くのフラダンサーを育てました。
レフアナニ佐竹は2013年4月5日に83歳でこの世を去りましたが、彼女が遺した遺産は、フラダンスとポリネシア文化の普及において今も生き続けています。彼女の情熱と献身は、次世代のダンサーたちに大きな影響を与え続けています。
功績
レフアナニ佐竹の功績と影響
レフアナニ佐竹は、1956年から日本のフラダンス界で先駆者として活躍し、日本人として初めてハワイでフラを教える資格「Kumu Hula」を1962年に取得しました。この称号は、フラダンスとハワイアン文化への深い理解と尊敬、そして長年の献身的な学びと実践を経て得られるものであり、彼女のフラへの深いコミットメントを示しています。
主要な功績と活動
初代講師としての役割
国内では、常磐ハワイアンセンターの初代講師として、フラダンスの技術と精神を次世代に伝える重要な役割を果たしました。また、「Lehuanani Satake」として自らスクールを主宰し、フラダンスの普及と発展に尽力しました。
全日本フラダンス協会での貢献
彼女の影響は日本全土に広がり、現代のフラダンスの人気に大きく貢献しました。全日本フラダンス協会でも役員として活躍し、フラダンスの地位向上とハワイ文化の理解促進に努めました。
影響と遺産
レフアナニ佐竹が残した遺産は、今日の日本におけるフラダンスの盛況と、多くの人々がこの美しい舞踊を通じてハワイ文化に親しむ機会の増加によって、確固たるものとなっています。彼女の功績は、フラダンスとハワイ文化への愛を共有するすべての人々によって記憶され、称えられ続けています。
まとめ
2013年4月5日に83歳でこの世を去ったレフアナニ佐竹の功績は、彼女が日本におけるフラダンスの普及とハワイ文化の理解に多大な貢献をしたことを示しています。彼女の遺産は、フラダンスの技術と精神を次世代に伝えるための教えと、ハワイ文化への深い愛情として今も生き続けています。彼女の魂が平和に包まれることを願います。
このように、レフアナニ佐竹の生涯と功績はフラダンス界において深く尊敬され、未来のダンサーたちにとってのインスピレーションとなっています。